織田信長の時代に宣教師のフロイスが地球儀をもってきた。
そしておおよそ江戸時代になって、この大地は丸い球であるという事実が日本人に定着。
それ以前は仏教にもみられる平面世界観であった。
この大地は円盤状の世界で、その中心に高山がそびえ、月や太陽はその周りをまわっているという考えである。
その高山を模したものがお寺の塔(ストゥーパ)であり、
その高山の頂上、神が住む有頂天を表したものが各家庭にある仏壇(須弥壇)である。
記紀に登場する「高天原」も、この大地は丸い球であるという事実を知る以前の平面世界観での産物である。
だから蘇我馬子が推古天皇に高天原のある葛城の領有を願い出たた時、
私は今まで叔父の言う事は何でも聞いてきましたが、それだけはできませんと断られる。
この大地の、この世界の中心、日本の最も神聖な場所を蘇我に明け渡すわけにはいかなかったのである。
江戸時代に登場する本居宣長に代表される高天原=天上説は、
この大地は丸い球であると知って以降の考え方であり、
それ以前の平面世界観での高天原を説明できるものではない。
以上、平面世界観では、高天原は「どこか」に見立てられているのであり、
それは古来から高天山と言われた金剛山の麓、奈良県御所市高天しかない。
そこに卑弥呼の墓もある。