top of page

魏志の卑弥呼とヒメタタラは一致するか

現代中国語でのピンインでの表記

卑弥呼:Bei mi hu 

今のところ卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比咩后(Bi mie hou)、
比売后〈Bi mai hou〉以外には類似する名称は存在しない。 
但し弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則については説が確立していないとする説も存在する。

 

(wiki  発音記号文字化けするので訂正)

比咩后(Bi mie hou)
比売后〈Bi mai hou〉

つまり、

⑩崇神(310年頃 318年没) 
⑨開化 
     ⑧孝元 
          ⑦孝霊    
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭 
トヨ津       (250年頃) ④懿徳  
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后       ②綏靖 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 


「ヒメ后」ということでしょう。

私はヒメタタライスズヒメが卑弥呼であるという説を提起する。

 

では魏志に書かれてる卑弥呼とヒメタタライスズヒメが一致するのか。

 

まず時期。

崇神4世紀初頭として約6世代前の神武が2世紀後半~3世紀あたり。

当然、ヒメタタライスズもその時代。

 

そして何より名前。
別名でなく、この女性ほど「ヒミコ」に近い人物はいない。

 

【年已長大、無夫壻】

私が卑弥呼をヒメタタライスズ媛だと言った時、

必ず受ける反論が「卑弥呼は独身のはずだが?」というものである。

 

年已長大、無夫壻
①歳すでに長大である。夫はいない

②歳すでに長大であるも夫はいない

 

①と②では意味が大きく異なる。

①では寡婦もありうる。

②ではまるで生涯独身である。

寡婦でも生涯独身でもどちらも有りと考えれば良い。

にも関わらず、卑弥呼は生涯独身であったと解釈する人が多い。

後の時代の斎王か何かとイメージがごっちゃになってるのだろう。

古今東西、世界のどこに女王の「恋愛、結婚、出産」という、

女性としての普通の欲求をを妨げる国があったのか。
むしろ周りが率先して婿をみつけてあげるのが常識。

頭が固い。

​こういう人が多かったから卑弥呼が見つけられなかったのだ。

 

ヒメタタラが夫の神武に先立たれ、2代綏靖が皇位を継ぐまでに空白期間(書紀では3年)がある。魏志の記述はこの時期の様子を描写したのだろう。



【事鬼道、能惑衆 】 

鬼道を銅鐸祭祀と考えている。

魏志によれば「其の国」は2世紀前半から存在する。

大和では鏡は3世紀の纏向古墳群から出るので、

それ以前の大和は銅鐸の時代である。

ヒメタタライスズの鴨氏は銅鐸族である。

また中国側が中国発祥である鏡祭祀を鬼道と表現するのかという疑問がある。

やはり鬼道とは銅鐸祭祀であろう。



【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】

この男子一人とは、神武の連れ子であり、

彼女の義理の息子であるタギシミミであろう。
ヒメタタラとタギシミミの二人はやがて結婚する。

【有男弟佐治國】

中国には女弟という表現もあるので、
この男弟とは「徒弟」の弟、つまり臣下・部下と見る。
ならば彼女に代わり政治を行ってた実兄の天日方奇日方命(食国政申大夫)の事であろう。

 

 

 

卑弥呼最有力候補は畿内説ではモモソ媛。

しかし崇神治世まで生きたモモソ媛が卑弥呼であるわけがない。

時代が違い過ぎる。

また一皇女であるモモソ媛が女王などとはとても言えまい。

また寡婦の時期がない。

 

九州説の最有力候補はアマテラスだが神武より5世代前であるから時代が違う。

大和での古墳時代開始が4世紀ならアマテラスと卑弥呼の時代も合ったが、

今では2世紀末~3世紀初頭が定説である。

そして九州のどこにいたのか不明。また本当に実在したのかも不明。

私はアマテラスは高天原(葛城)に実在したシタテルヒメ(タカヒメ)がモデルだと考えている。もしそうならアマテラスはそもそも九州にはいないことになり九州説は土台から崩れる

 

 

 

 

 

 

 

纏向に卑弥呼はいない

 

 

 

橿原考古学研究所の寺沢薫さんは纏向古墳群について

筑備讃播=「筑紫、吉備、讃岐、播磨」の要素と言っておられるようだ。

それほど、この纏向遺跡には瀬戸内の影響が大きいようだ。

何故瀬戸内なのか。

最近、前方後円墳のルーツが東瀬戸内と判明してきた。

東瀬戸内発祥の円形周溝墓に一部陸橋が残る形が定形化し、 

やがて高塚化していくようだ。 

播磨や讃岐など、淡路島をはさんで南北の地域。

 

まるで国生み神話のイザナギ・イザナミの世界だ。

 

その瀬戸内集団が大和の纏向の地に乗り込んできた。

およそ2世紀末、卑弥呼の時代。

これは先代旧事本紀・第3巻天神本紀にある、

ニギハヤヒに随伴した九州~瀬戸内の物部集団の記述に符合する。
筑紫贄田物部、筑紫聞物部、播麻物部、讃岐三野物部などなど。

まさに筑備讃播。

おそらくその主力は吉備であろう。

さらに、

3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳だが、

その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室がある。
不思議なことに300年以上も経過してから突然、

横穴式石室が作られたことになる。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍だから、

相当力のある豪族が造ったのだろう。

6世紀後半、桜井を支配したのは物部守屋である。

「※日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、

海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、

群衆の目前で鞭打った」

守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてきたのであり、

14mの横穴式石室を作ったのは物部氏という事になる。

なぜ造ったのか。

蘇我と争った丁未の乱(587年)で物部氏が滅ぶ。

一族の再興を願い、守屋の次世代あたりの人物が埋葬されたのではないか。

ホケノ山古墳が物部の氏神墓だからだろう。

(氏神とはウマシマジまたはヒコユキか)

さらに、

大王で初めて桜井に宮を構えたのは10代崇神天皇。

お母さんは物部氏のイカガノシコメ。
母親の実家で子供を育てたと言われる時代を考えると、

桜井がイカガノシコメの地元であり、
つまり桜井は物部氏の土地だったことになる。

さらに、

4世紀初頭と言われる崇神時代は物部氏ではタベノスクネあたりの時代だが、

遡ること6世代で物部の祖・ウマシマジなので、
当時の平均寿命から計算して1世代間20年で

最古の纏向石塚古墳の時代(2世紀末)と合う。

 

そして、


楯築遺跡(双方中円墳・吉備)→櫛山古墳(双方中円墳・崇神時代外威=物部)

この櫛山古墳は行燈山古墳(ほぼ崇神天皇陵で間違いない)の隣ににベタリとへばりついている。

母親のイカガノシコメではないのか。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【結論】 纏向遺跡とは古代物部氏の遺跡である。

纏向に卑弥呼はいない。

私の考えた年表

・2世紀末 女王ヒメタタライスズ(卑弥呼)即位     

・200年頃 女王ヒメタタライスズ(卑弥呼)  イワレヒコ (神武)

・210年頃 女王ヒメタタライスズ(卑弥呼)イワレヒコ死去 

      ヌナカワミミ(綏靖)タギシミミの乱  

・230年頃 女王ヒメタタライスズ(卑弥呼) タマテミ(安寧) 

・248年  女王ヒメタタライスズ(卑弥呼)死去 

・250年頃 女王アマトヨツ(台与〉   スキトモ(懿徳)   

・270年頃 女王アマトヨツ(台与〉   カエシネ(孝昭) クニオシヒト(孝安)

・280年頃 フトニ(孝霊)複数の妃、実質の大王か 

・290年頃 ウツシコメ(物部)イカガノシコメ(物部)クニクル(孝元)オオヒヒ(開化)

・300年頃 大王ミマキイリヒコ(崇神) 

・318年  大王ミマキイリヒコ死去

 


 

高鴨神社ご神体・神山
明らかな人為塚である
高鴨神社に社殿ができたのは5代孝昭の時代
卑弥呼の死後の時期と重なる
​♪
​グリーンスリーヴス
bottom of page