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​​3世紀にヒメとトヨがいた

​ 3世紀推定世代系図

 

  1. ヒメ踏鞴   神武    

  2. ヒメ踏鞴   綏靖    

  3. ヒメ踏鞴   安寧

  4. トヨ    懿徳 孝昭 

  5. トヨ    孝安    

  6. 孝霊 孝元 開化

  7. 崇神(318年没)

 

 

 

​加古隆 パリは燃えているか

「倉西裕子『東アジアの古代文化112号』 の「『日本書紀』における紀年の編成をめぐる一考察」 

応神元年が390年である理由。 

● 応神3年条において百済国の阿花王 (392-405)の即位を伝えているが、『東国通鑑』『三国史記・百済本紀』は、阿花王の即位を392年と記しており、逆算して求められる 応神元年は390年である。 

● 応神8年条文註に百済国の王子直支の来日 を伝えている。『東国通鑑』『百済本紀』は、直支王(405-420)を人質として遣わした年代を397年と記しており、逆算して求められ得 る応神元年は390年となる。 

● 応神16年条に「是歳百済阿花王薨」と所 見されるが、『百済本紀』の伝える阿花王の崩年は405年であることから、逆算して求められ得る応神元年は390年である。 

● 巻九神功紀後半の紀年が四世紀後半に位置 づけられることは、実証主義の立場からは否めない。従って、次巻の応神紀の応神元年は、四世紀末にくる。応神元年条の正文にある「庚寅」の年 は『日本書紀』の編年においては西暦270年に当たるが、史実としては390年に設定されていると認識される。」

また応神天皇陵でほぼ間違いないであろう誉田御廟山古墳の須恵器の編年が5世紀初頭。

やはり応神元年は390年だろう。

世界の王の平均在位

 

「中国」
17~20世紀→22.27年、13~16世紀→14.2年、

9~12世紀→13.63年、5~8世紀→10.18年、

1~4世紀→10.05年。
「西洋」
17~20世紀→21.53年、13~16世紀→20.71年、9~12世紀→17.13年、5~8世紀→13.22年、

1~4世紀→9.04年。
「世界」
17~20世紀→19.16年、13~16世紀→17.91年、9~12世紀→15.75年、5~8世紀→11.57年、

1~4世紀→10.56年。

田和山遺跡出土石硯片

ヒメタタライスズの母親である勢夜陀多良比売(玉櫛媛たまくしひめ)は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘であるが、この三島橛耳は名前の通り大阪茨木市の三島あたりを本拠にしたようで、当地には東奈良遺跡​という日本最大級の銅鐸工場がある。

御所・名柄から出土の銅鐸と鏡

 

 

考古学的に10代崇神天皇が4世紀初頭から前半になりつつある。

 

魏志によればそれ以前の3世紀は女王の時代である。

 

それと呼応するかのように、崇神以前に妃のいない天皇たちがいる。

初代神武から6代孝安である。

​もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。

しかし妃はいない。

大王(おおきみ)なら自分の子孫を残すため複数の妃がいるのが普通。

ところがいない。

 

なぜ彼らには妃がいないのか。

魏志の記述通り、この時代が女王の時代だからである。

つまり彼らは大王ではなかったのである。

では話は簡単。

彼らの正后をみればいいのだ。

その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。 
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。 

それがいるのだ。

●推定3世紀系譜

 

①神武・「ヒメ」踏鞴五十鈴

綏靖 ・イスズヨリヒメ  生きてた「ヒメ」蹈鞴が女王 
③安寧・ヌナソコナカツヒメ  生きてた
「ヒメ」蹈鞴が女王 
④懿徳・天
「トヨ」
⑤孝昭・ヨソタラシヒメ   生きてた天「トヨ」が女王 
⑥孝安・オシヒメ      生きてた天
「トヨ」が女王 

見事にヒメとトヨの時代。

 

そして7代孝霊には複数の妃。

また​神武から6代孝安までは宮が葛城である。

孝霊から脱・葛城になる。

邪馬台国とは簡単。

邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住んだ葛城、奈良御所市。 
 

纏向(遺跡)に卑弥呼はいない。 

 

固定観念が歴史を見えなくする

 

 

崇神即位をおおよそ4世紀初頭、分かりやすく西暦300年。

台与即位を分かりやすく西暦250年。

卑弥呼即位を分かりやすく西暦190年。

崇神からほんの少しで台与、そして卑弥呼。
これは記紀に登場しないというのがおかしいのだ。

どこのどなたが「卑弥呼も台与も記紀にはいない」と言ったのか分からないが、もはや固定観念のようになっている。

これはおかしい。
卑弥呼も台与も天皇系譜のイの一番にいるのに誰も気づいてない。
私はこれを言ってるのだ。

何故誰も気づかなかったのか。

「神武は大王であった」という、これまた固定観念が邪魔をしてるからだ。

神武と卑弥呼の時代が一致する

 

記紀によれば崇神から神武まで遡ること9世代。

 

ところが物部の先代旧事本紀をはじめ、

中臣、鴨、三上祝の各系図とも、

崇神時代の人物から神武時代の人物まで、

遡ることおおよそ6世代である。

 

http://kodai.sakura.ne.jp/sblo_files/yamatai/image/mononobe-nakatomi-mikami.pdf

 

どちらの信憑性が高いか。

後者である。

なぜなら記紀と違って時代を引き延ばす動機がないからである。

 

当時の平均寿命は40歳に満たない。

1世代間(父と子の年齢差)で約20年。

崇神(4世紀初頭)から神武まで遡ること6世代、120年。

卑弥呼の時代である。

 

やはり神武と卑弥呼は同時代を生きた。

ならばまだ話は続く。

朝貢年

266年 台与        天トヨ津
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ蹈鞴五十鈴
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ

 

 

後漢書東夷伝の倭国王帥升とはスサノオである。

 

 

なぜ古代天皇は100歳を超えるのか

 

BC2世紀の出雲の田和山遺跡から楽浪の硯(すずり)が出た。

それでも当時の日本に文字があったと認められない学者は、

その硯をあくまで権威の象徴と見ていた。

しかしAD2世紀前半の三重の大城遺跡から文字の書かれた土器が出た。

そして最近、九州からもスズリが出た。

 

弥生時代に文字があったことは確実となった。

ではその文字を何に使ったのか。

何ほどか王権、王統に関わる事ではあろう。

 

つまり欠史8代はもちろん、

それ以前からの王統譜もおおよそ正しいのではないのか。

 

 

スサノオが実在したとして何もおかしくはない。

いや記紀編纂者たちはそれを知っていただろう。

スサノオは神代の人物ではなく神代に設定されたのである。

 

 

2017年全邪馬連に発表した説(一部改編)

 

邪馬台国は葛城である 

 

青銅器分布から見る高天原と邪馬台国     

        

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

邪馬台国は葛城である。  
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。  
 
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。  
 
これで邪馬台国論争は終了する。  
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。  
 
2015久住編年でもこれが最有力。  
 
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。  
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。  
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。 

ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。  

 

私は探した。 

ほらヒミコもトヨもいた。 

 
 

⑩崇神(310年頃 318年没)  
⑨開化 
     ⑧孝元  
          ⑦孝霊     
トヨ津        ⑥孝安 ⑤孝昭  
トヨ津   (250年頃)④懿徳   
ヒメ踏鞴        ③安寧  
ヒメ踏鞴        ②綏靖  
ヒメ踏鞴 (200年頃) ①神武   
 
神武から6代孝安まで宮は葛城である。  

また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。 

彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。 

つまり魏志に書かれた女王国とは神武~孝安時代の事であり、 

それは葛城王朝であった。 

 

※年代は一代平均在位11年弱、一世代間隔20年弱での計算。 

 

 

なお、 

【年已長大 無夫壻】 

これだけでヒミコを生涯独身などと決め付けてる硬直化した論者がいるが、「歳すでに長大 夫はいない」なので寡婦も含まれる。 

ヒメ踏鞴は寡婦であった。 

 

そもそも2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで続いた王権を日本人が忘れているわけがない。 

なにかしらの形で記録、伝承し、そして今も信仰してるのであろう。 

伝承も謂れもない場所にヒミコはいないのである。 

 

2世紀前半の男王から3世紀後半のトヨまで続いた王権。 

ヒミコを生んだこの王権を日本人は忘れていないし今も信仰している。 

 

真理とは得てして単純明快である。 

80歳のお婆ちゃんから「ヒミコとは誰ですか?」と聞かれて、 

納得させられる人物こそが卑弥呼であろう。 

私なら「卑弥呼とは、えべっさん(事代主)の娘さんですよ」と答える。 

 

長い間、神武天皇が実在か否かの議論があった。 

違うのだ。 

 

「神武の時代が女王国であった」 

 

発想を地動説に変えていただければ解けるのだ。 

 

 

神武は大王(おおきみ)ではない 

 

記紀では神武は終始「天皇」と表記されている。 

しかし神武の時代に天皇という称号はない、できたのは7世紀である。 

また大王という称号が登場するのも仁徳紀からである。 

では神武の役職は何であったのか、とりあえずは不明としておこう。 

 

ところがこの神武時代に日本書紀で「王」、鴨王と記されている異色の人物がいる。 

 

「曰渟名底仲媛命 事代主神孫 鴨王女也」(日本書紀原文) 

 

この鴨王(かもきみ かものおおきみ)とは3代安寧の后ヌナソコナカツ媛の父で、 神武の義理兄であり、

先代旧事本紀に「天日方奇日方命」と記載される人物である。 

 

後の時代には例えば額田王など王の付く皇族はいる。 

が、あくまで一皇族であり、その時代には天皇がいたわけだから、 

その地位は天皇を越えない。 

ところが神武の時代には天皇という称号がないわけだから、 

この鴨王ことクシヒガタが実質最高実力者であったと考えられる。 

神武の血統以外の人物に「王」の表記である。 

これは誤表記では済まされない。 

 

つまり神武時代は鴨族の男系が支配する鴨王朝だったのである。 

その代々王の名称とは「大物主」であろう。 

この王朝は崇神時代まで続き、ハツクニシラスこと崇神によるクーデターで倒れる。 

それゆえ崇神は大神神社を建て大物主の霊を鎮めたのだ。 

 

考古学的根拠もある。 

東大寺山古墳(4世紀後半)出土の鉄刀である。  
 
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」  
 
「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」  
 
中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年を指し、 

「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期、 

2世紀の末である。  
中平銘紀年刀は倭国大乱終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。  
この鉄刀がいつどこで入手され、東大寺山古墳に副葬されたのかは分からない。  
しかし、この古墳の被葬者の祖先が中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。 
 

この古墳の被葬者とは和邇氏である。 
 
【和爾氏本拠】  
和爾坐赤坂比古神社  
奈良県天理市和爾町  
祭神「阿田賀田須命」  
 
 
和珥氏(和爾氏)の語義が、王族だという意味で「王氏」、  
昔であれば「わう」ではないかという説を教えていただいた事がある。  
ならば和邇は王族の流れという事になる。  
それもぞのはず和爾坐赤坂比古神社の祭神「阿田賀田須命」とは鴨族の男系であり、鴨王ことクシヒガタの5世代後の末裔。  
つまり王族である。 

だからその末裔である東大寺山古墳被葬者(和邇氏)が鉄刀を副葬できたのである。  

 

つまり2世紀末~3世紀初頭の卑弥呼とは、王族であった鴨氏・和邇氏の系統にいたことになり、当時の平均寿命から一世代20年弱で計算すると阿田賀田須命から5世代前のクシヒガタ(天日方奇日方命)時代となる。 

  
やはり卑弥呼(ヒミコ)とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいない。 

 

鴨王ことクシヒガタ(天日方奇日方命)は倭国大乱の際、 

妹を女王に立て、自らは申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)に退いたのであろう。 

男の徒弟、つまり男弟であり、魏志の言う【有男弟佐治國】である。 

 

ヒメ蹈鞴五十鈴媛 

 

日本書紀では「媛蹈鞴五十鈴媛命」 

ヒミコなら「蹈鞴」や「五十鈴」は何なのだとの疑問が湧く。 

 

逆説的に言えば媛蹈鞴五十鈴媛命だからこそヒミコなのだ。 

 

日本書紀は神功皇后を干支で2運・120年古くずらし卑弥呼の時代にあて、魏志の記事を引用している。 

これは本当の卑弥呼が誰なのか知っているからこそ隠しているのである。(隠した理由については後述) 

その日本書紀で「姫命」「媛命」「日女命」「比売命」「日巫命」などと誰でもヒミコだと分る名前を表記するわけがない、隠した意味がなくなるからだ。 

ヒミコとはただ普通に周りから「ヒメ」と呼ばれていた日本語の発音を魏使が漢字で「卑弥呼」と表したのであろう。 

 

古事記では「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)だとし、この名前を嫌がって「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と変えたとしている。 

名前を恥ずかしいと思うような物心がついた時期に変えたのなら、 

最初から「比売多多良伊須気余理比売」と書けばいい。 

これはわざと「ホト」という文言を前面に押し出し、そこに歓心を持たせ、注視させ、ヒメからくる卑弥呼のイメージを遠ざけようという魂胆が垣間見える。 

どこの世界に娘に陰部の名前を付ける馬鹿親がいるものか、 

これは意図的なヒミコ隠しの創作であろう。 

 

私は帝紀・旧辞には「姫命」「媛命」「日女命」「比売命」「日巫命」などヒミコと分る名前が記されていたと推測する。 

それをそのまま書けなかった。 

かといって全然違う名前にしたり、存在を消すなんてことはできない、 

それは祖先への冒涜になる。 

 

考えられるのはアレンジである。 

 

ヒメに+αしていけば第一印象で容易にヒミコと分からない。 

よって7世紀の出雲族の象徴「踏鞴」と妹と同じ「五十鈴」を足した。 

その結果が媛踏鞴五十鈴媛になったと推測する。 

 

 

 

では卑弥呼の宮や墓はどこにあるのか 

 

卑弥呼(Bei mi hu )=比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉

 

つまりヒメ后ことヒメ踏鞴五十鈴が住んだのは葛城である。 

夫の神武、息子の綏靖も葛城である。 

神武の宮は現在の橿原神宮ではない、あれは明治時代に造られた。 

実際の神武の宮はかつて本居宣長が菅笠日記で指摘し、 

また鳥越憲三郎氏も「神々と天皇の間」で指摘した御所市柏原であろう。 

当地には神武天皇社が存在し、ホホマ、ワキガミ、アキツの地名も残る。 

 

そして綏靖の高丘宮は御所市森脇が有力である。 

ならばヒミコことヒメ踏鞴五十鈴の宮もその近くであろう。 

 

考古学とは不自由な学問である。 

いわゆる天皇陵は発掘できない。 

また謂れのある場所、つまり神社仏閣も発掘できない。 

発掘できるのは発掘許可の下りた謂れのない場所である。 

魏志のヒミコが住んだほどの宮なら何ほどかメモライズされ、 

今日でも謂れのある神社になっている可能性が高い。 

 

御所市名柄の長柄神社は式内社にして別名「姫の宮」。 

私はここだと考える。 

 

祭神はシタテルヒメ、ヒメ踏鞴と同じ鴨族であり、 

神武ヒメ踏鞴夫妻より2世代前の人物である。 

このシタテルヒメ、後述するが鴨族の中ではヒメ踏鞴よりも重要視される人物である。 

私はこの長柄神社は鴨族の姫たちの宮であったと推測する。 

また当地の名柄遺跡は、全国で唯一、銅鐸と鏡が同時に出た遺跡である。 

名柄遺跡の時期は弥生中期、鴨族が出雲から移住してきたと推定される時期である。 

 

 

 

 ヒメ踏鞴は出雲系鴨族である。 

鴨の語源はカムィ、あるいは神魂(カモス)、つまり神と呼ばれた一族である。 

ゆえ、ヒメ踏鞴と結婚した神武はカンヤマト、 

長男はカンヤイ、次男・綏靖はカンヌナカワと「神」の名が与えられた。 

 

全国のカモ地名と銅鐸の関係はすでに複数の研究家が指摘している。 

鴨族は銅鐸族である。 

最近、銅鐸と水源の関りが言われている。 

人間が生きていくために一番不可欠な水、 

その湧き水の第一利用者がカミ、山の神である。 

銅鐸の謎の一つが山の中腹から出る事である。 

これもカミによる水源支配だと考えれば理解もできる。 

 

2017年6月、出雲の加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸である淡路の松帆銅鐸が、炭素測定でBC4世紀からBC2世紀との結果が出た。 

この加茂岩倉との同笵銅鐸は近畿一円に広がっている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良では上牧に出る。また多神社のある田原本町から発見された銅鐸の破片と、この加茂岩倉遺跡の一部の銅鐸とは成分比が似ている。 

鴨(神=カムィ)族はBC4世紀からBC2世紀には、おそらく防衛上の理由から大和に移住していたのであろう。 

 

下(左)の図は弥生時代の青銅器の分布図である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

九州・瀬戸内に武力が展開されている。 

いわゆる防人(さきもり)である。 

これは7世紀の白村江敗戦後と同じ様相である。 

畿内にあった都を九州・瀬戸内の防人が守っているのである。 

 

こういう状況で邪馬台国九州説はあり得ない。 

 

邪馬台国は畿内である。 

 

そして神武が大和に来て先住の事代主神の娘・ヒメ踏鞴と結婚する。 

上記、神武が住んだのは葛城である。 

つまり葛城に先住王権があった。 

鴨(神)王朝である。 

したがってヒメ踏鞴やトヨ津の墓も葛城にある。 

 

どこか。 

 

鴨族にとっての聖地、高天原(御所市高天)である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

魏志によれば2世紀前半には其国に男王がおり、 

70~80年続き倭国大乱を経て卑弥呼擁立である。 

 

纏向遺跡の箸墓古墳を卑弥呼墓とする場合、2世紀前半の其国の男王の墓を説明できない。纏向遺跡が2世紀末から始まるからだ。 

九州説の場合は論者により墓比定もばらばらであり、場所も一地域ではなく散漫として離れている。 

また北部九州は文献や神社伝承などでも「王権」に関する謂れがない。 

これは致命的である。 

 

2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨの墓まで説明できるのは葛城の御神域しかない。 

 

高鴨神社の祭神は  迦毛大御神(かものおおみかみ)。 

古事記で大御神と表記されるのは天照大御神、伊邪那岐大御神、 

そしてこの迦毛大御神だけである。 

極めて重要な神である。 

誰であろうか。 

迦毛大御神は別名アジスキタカヒコネ。 

神度剣を持ち暴れている。 

キーワードは「高天原、剣、暴れる」。 

 

スサノオである。 

 

高天原(御所市高天)を「追放」された場所。御所市鳴神にある日本最古級の神社にスサノオが祀られているのである。 

ならば迦毛大御神と「対」で祀られているシタテルヒメとは誰であろうか。 

下を照らす姫、古事記では高姫、高い所にいる姫、 

つまりアマテラスである。 

迦毛大御神とシタテルヒメは神武の2世代前であり、 

5世代前のスサノオやアマテラスとは時代が合わないという反論もあろう。 

私は5世代前のスサノオやアマテラスを意図的に神話化したゆえ、 

その実像を神武から2世代前の迦毛大御神とシタテルヒメに託したと思っている。 

あくまでスサノオとアマテラスは神武より5世代前だと考える。 

 

日本書紀では実在したスサノオやアマテラスを意図的に神話化した。 

7世紀の朝廷はなぜそんなことをしたのか。 

 

スサノオが後漢書東夷伝の倭国王帥升だからである。 

 

 

朝貢年 

266年 台与        トヨ津 
 ・ 
238年 卑弥呼       ヒメ踏鞴 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
107年 倭国王・帥升     スサノオ 

 

つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。 

スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。 

この屈辱的な史実を日本書紀は書けなかった。 

だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。 

その結果100歳を超える天皇が誕生した。 

そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。 

さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、 

女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。 

そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。 

 

これが私の考える日本の歴史の真相である。 

 

あとがき 

 

もともとこの邪馬台国論争とは何であろうか。 

 

「古代天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない(本居宣長)」 

 

私は新井白石をはじめこれら江戸時代の国学者たちによって九州説なるものが意図的に創作されたと思っている。 

彼らはそもそも邪馬台国が九州にあったとは思っていない、 

ただ国学者としてのプライドで大和朝廷および古代天皇の朝貢を認めたくなかったのだ。 

彼らが九州説を創作、そして支持者が増え、論争してくれてるうちは古代天皇の朝貢という辛く重い荷物を着地させずに済む。 

その着地しない状況を永遠に創ろうとしたのだ。 

つまり九州説とは世論誘導のための虚構である。 

 

これはいずれ稿を改めて発表したい。 

 

なお「纏向遺跡とは何なのか」は紙幅の関係で割愛しました。 

 

 

     (2017年 12月8日)

 

              

                 
                

                                そして結論

 

   事代主 
     ┣━━━━━━━┓ 
   天日方奇日方(鴨王) 
ヒメ踏鞴━━神武 
     ┣━━━━━━┓ 
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧 
     ┃            ┃ 
    建甕尻          息石耳    ※
ヒメ踏鞴五十鈴(248年没) 
     ┃            ┃ 
    豊御気主        
トヨ津 ━━ 懿徳
     ┃              ┃ 
   大御気主             孝昭 
     ┃              ┃ 
    阿田賀田須        天足彦国押人命 
                   ┃ 
                和邇日子押人命 
                 ┣━━━━━━━┓ 
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃) 
 ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓ 
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命 
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】 
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】 
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命 
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)

長柄神社・姫の宮(画像)

​邪馬台国の都はここであろう。

スクリーンショット (24).png
bb-0.JPG
長柄神社 
祭神は下照姫命
ヒメタタライスズの2世代前の親族。
この女性こそアマテラスの原像であろう。
(これについては後述)
​いずれにしてもここは神(鴨)族の姫様の宮であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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