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邪馬台国論争は創られた

 

 

107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみる。

魏志の卑弥呼の朝貢が238年。

スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。
しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。

邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。

 

ところが大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。

スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。


記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばし編纂された。

 

本居宣長をはじめ江戸時代の国学者はそれを知っていた。
今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。
ショックが大きい。

だからわざと九州説という虚構を創ってごまかしたのだ。

論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。

これは天才の所為である。

卑弥呼死後の男王


卑弥呼死後に男王が立ち内乱となる 
    ↓ 
壹與が王に立つ 

卑弥呼死後立った男王とは、事代主の曾孫・建甕尻であろう。

先代旧事本紀では別名・タケミカツチ。

意図的に神話にされてはいるが、タケミカツチとタケミナカタの戦い、

これこそが卑弥呼の死後に男王が立ち、千人余りが死ぬ騒乱のことであろう。

 

 

 

    事代主
     ┣━━━━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
    建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃           ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ(踏鞴五十鈴)(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津媛━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主            孝昭
     ┃             ┃
    阿田賀田須       天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命

 

戦った場所はのちに久努国と言われる狗奴国(浜松・磐田)周辺

天竜川を遡上して逃げるタケミナカタを追いかけ、

諏訪湖に追い詰め、戦いで血が隈なく流れ(血隈川→千曲川)、

大地が地で染まる。(血野→茅野市)

タケミカヅチ(鹿島神)には物部系と言われる経津主神(香取神)が随伴する。

やがて二人は関東に移動。

その証拠に経津主神(香取神)の移動先の千葉に纏向型前方後円墳が現れる。

神門古墳群である。

その時期は考古学的に3世紀中頃、卑弥呼の死亡時期に合う。

そしてトヨ津媛という13歳の娘が王位に就く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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