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魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。

高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
(画像)

卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。 
比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。 

⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津          ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津       (250年頃) ④懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武 

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。

この塚の中央には高天彦神社の参道が通っている。

途中にさほど古くはない墓石群がある。
この塚が地元では墓域であった証拠だと思われる。


奈良の山間部には今も土葬が続く地域がある。
ここ高天は水源になるから、衛生上の問題から土葬が禁止になったのかもしれない。
それが墓石群(火葬か?)になるのかも。

「棺あり 槨なし」

纏向遺跡とは全然違う様相が大和にもあった。

『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、
大和国で恭順に及ばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)

和珥坂下の居勢祝(こせはふり)
臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。
また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討っており、
そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。
高尾張邑にいた土蜘蛛については、
体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。
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高天原のふもと、葛城一言主神社にも土蜘蛛塚があるが、長柄の近くであり、これは猪祝であろう。
私が指摘している高天原の径百余歩の塚の周りの土蜘蛛痕跡、これが高尾張邑にいた土蜘蛛ということであろう。

「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」

これが神武軍によるものであった。
多分、今まで誰も指摘していなかったと思われる。

私の説の主旨は、

・崇神天皇4世紀前半として「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏系図から導き出される3世紀後半のトヨとはトヨ津媛、
卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)媛である

・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛はじめ鴨(神)族の墓は高天原にあり、日本最古の高天彦神社境内に奴婢(土蜘蛛)とともに径百余歩の塚に埋葬されている

・後漢書東夷伝の倭国王帥升とはヒメ(踏鞴五十鈴)から約5世代前のスサノオであり、記紀はスサノオの後漢・安帝への謁見要請、
つまり土下座という屈辱的史実を覆い隠すために大きく時代を変え、その結果神武127歳などとなった

・神武東征紀とは女王国時代を隠ぺいするために意図的に武勇伝を強調し男王国に見せかけたもの、
そして「天皇・皇后」という7世紀に創られた新称号は魏志に書かれた真の女王を隠ぺいするための物である


先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただいた。
その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というもの。
先代旧事本紀についても同じであるというご意見だった。

早い話が神武やニギハヤヒやスサノオなどの実在を簡単に言ってくれるなということであろう。

しかるに崇神天皇4世紀前半がおおよそ確定的である事から考えると、大和盆地で土師器や古墳造営が始まる大変革期の庄内0期が最新編年で2世紀末にくるようなので、ならばプレ崇神というべきか崇神以前の王権を想定はできるはず。
しかもおおよそ崇神から庄内0期まで120年として世代で言えば6世代、記紀は崇神以前を親子継承として9世代だが、先代旧事本紀の鴨や物部の系図では6世代。
先代旧事本紀の鴨や物部の系図は考古学とぴたり符合するわけで、先代旧事本紀という史書の信憑性がむしろ高くなってるのではなだろうか。
また考古学者では森浩一さん、文献史学者では上田正昭さんなど先代旧事本紀の重要性や復権を言われていた方もおられたわけで、
私はなにも臆することなく神武やニギハヤヒなどの実在を言い続けたいと思っ。

また前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないだろうか。

そこにもし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、ギリシャ神話のトロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと思ったりする。

「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ批判という名を借りた記紀からの「逃避」ではなかろうかとも思う。

wiki「高天原」より

古典作品では、『蜻蛉日記』にて『夢ばかり見てしばかりにまどひつつ明くるぞ遅き天の戸ざしは(203-05下)』という和歌があり、さらにこれに続く和歌として『さもこそは葛城山に馴れたらめただ一言や限りなりける(203-07下)』とあることから、天岩戸が葛城山にあったとする理解は遅くとも平安時代まで遡ることが解る。鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、また能の葛城や代主などの舞台もこの地とされることから、中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。最終的には江戸時代初頭まで、新井白石が常陸国説を唱えるまでは、この地が高天原史跡だと考えられていたらしい。


つまりごく普通に高天原は大和葛城だと認識されていたことが分かる。
そこに径百余歩の奴婢(土蜘蛛)が埋葬された塚がある。
何も難しい事はなかった。

高天原が九州にあるなどと言う説は近年に出来たもの。
それに依拠してる邪馬台国九州説などはいかに底が浅いのかが分かる。


 

日本書記では、神武軍が高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)を編んで作った網を使って討っており、 
そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。 


変な戦法である。
普通は矢を射る、そして剣で斬る。 
葛を編んで作った網を使ったのは土蜘蛛を「生け捕り」にするためであろう。 

では神武は生け捕りにした奴婢(土蜘蛛)をどこに連れて行ったのか。 
いや神武はどこに住んだのか。 

カシハラである。 
といっても今の橿原神宮ではない、あれは明治になってできた。 

かつて本居宣長や鳥越憲三郎さんも指摘したように神武が住んだのは御所市柏原。 
そして神武に生け捕りにされた奴婢(土蜘蛛)の末裔は1700年後の20世紀初頭、声を上げる。 

「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」 

この地が水平社運動および部落解放運動の原点となる。 

だから今でも水平社博物館の隣が神武天皇社なのである。

たかま.jpg
スクリーンショット (13).png
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